沿革 |
- 1.樋脇町のホッケーの歴史
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昭和25年に樋脇高校が新制普通高校となり、斬新なスポーツを取り入れ新制高校の誇りと新進気鋭の精神を養うため、ホッケーを正課の体育授業に取り入れたのが樋脇町のホッケーの始まりである。翌年には樋脇高校ホッケー部が創設され、昭和30年に樋脇高校が国民体育大会に初出場し、昭和45年の国民体育大会で初優勝した。この国民体育大会初優勝までの20年間の永い年月の中において、ホッケー競技が町民の中に浸透してきた。
昭和47年に鹿児島の太陽国体でのホッケー競技会場となったことが、「ホッケーの町」として現在まで定着してきた。
太陽国体では、国体の成功を目指し、町民・行政が一体となりホッケー競技会場として気運を盛り上げ、樋脇高校も地元の期待に応え優勝を果たした。この気運を更に盛り上げるために結成されたのが、家庭婦人のホッケーチームや樋脇中学校のホッケーである。これらを契機として各世代の競技者が増えてきた。
その後、各チームが全国大会で優勝する様になり、全国に「ホッケーの町 樋脇」の名を高めている。
- 2.樋脇町ホッケー協会設立
- 樋脇町は、ホッケーとともに歩んできたと言っても過言ではない。永い歴史の中で関係者の努力と地域・ 行政が一体となったホッケー振興が図られてきた。その甲斐あって各世代の競技者も増え、小学生、中学生、高校生、一般、そして家庭婦人を中心とするママさんチームとそれぞれに活躍し、各種の全国大会等において好成績を収め「ホッケーと温泉の町」を名実ともに高めている。特に、樋脇高等学校においては常に全国レベルにあってホッケー界をリードするとともに、多くの卒業生が指導者として活躍している。また、日本代表選手として活躍している。
このような状況から競技団体としての「ホッケー協会」設立の声があったものの実現には至っておらず、今日を契機として「樋脇町ホッケー協会」設立し、協会を通して各チームが連携し技術力を高めるとともに、地域に根ざした本町ホッケーの更なる発展を目的に設立しようとするものである。
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